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東京地方裁判所 昭和59年(特わ)726号 判決 1984年9月12日

本籍

東京都三鷹市牟礼四丁目二二番

住居

神奈川県相模原市相原四八三番地一三

医師

今井健

昭和一九年一一月二二日生

右の者に対する所得税法違反被告事件につき、当裁判所は、検察官三谷紘出席の上審理し、次のとおり判決する。

主文

一  被告人を懲役一年二月及び罰金三〇〇〇万円に処する。

二  右罰金を完納することができないときは、金二〇万円を一日に換算した期間被告人を労役場に留意する。

三  この裁判の確定した日から三年間右懲役刑の執行を猶予する。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、神奈川県相模原市橋本一、九三七番地の六において、「慈慶クリニック」の名称で診療所を開設して医業を営んでいるものであるが、自己の所得税を免れようと企て、人件費を水増計上するなどの方法により所得を秘匿した上

第一  昭和五五年分の実際総所得金額が一億三四六二万四九三九円であった(別紙(一)修正損益計算書参照)のにかかわらず、同五六年三月一六日、東京都武蔵野市吉祥寺本町三丁目二七番一号所在の所轄武蔵野税務署において、同税務署長に対し、同五五年分の総所得金額が四八四六万六九四一円でこれに対する所得税額が一〇七三万八〇〇〇円である旨の虚偽の所得税確定申告書(昭和五九年押第八六四号の1)を提出し、そのまま法定納期限を徒過させ、もって不正の行為により同年分の正規の所得税額六六〇四万七八〇〇円と右申告税額との差額五五三〇万九八〇〇円(別紙(四)税額計算書参照)を免れ

第二  昭和五六年分の実際総所得金額が一億二一〇四万九九五〇円あった(別紙(二)修正損益計算書参照)のにかかわらず、同五七年三月一三日、前記武蔵野税務署において、同税務署長に対し、同五六年分の総所得金額が四六九〇万五八一〇円でこれに対する所得税額は、すでに源泉徴収された税額を控除すると二二五万二七六九円の還付を受けることとなる旨の虚偽の所得税確定申告書(同押号の2)を提出し、そのまま法定納期限を徒過させ、もって不正の行為により同年分の正規の所得税額五〇一二万二五〇〇円と右還付申告額との合計額五二三七万五二〇〇円(別紙(四)税額計算書参照)を免れ

第三  昭和五七年分の実際総所得金額が一億一四八四万七三五一円あった(別紙(三)修正損益計算書参照)のにかかわらず、同五八年三月一〇日、前記武蔵野税務署長に対し、同五七年分の総所得金額が五六〇七万六九九〇円でこれに対する所得税額は、すでに源泉徴収された税額を控除すると五四六万五二三三円の還付を受けることとなる旨の虚偽の所得税確定申告書(同押号の3)を提出し、そのまま法定納期限を徒過させ、もって不正の行為により同年分の正規の所得税額三七〇六万八二〇〇円と右還付申告額との合計額四二五三万三四〇〇円(別紙(四)税額計算書参照)を免れ

たものである。

(証拠の標目)

判示全事実につき

一  被告人の当公判廷における供述

一  被告人の検察官に対する供述調書

一  内田鐵郎(二通)及び加藤正の検察官に対する各供述調書

一  武蔵野税務署長作成の証明書

一  収税官吏作成の次の各調査書

1  収入金額調査書

2  水道光熱費調査書

3  通信費調査書

4  減価償却費調査書

5  福利厚生費調査書

6  給料賃金調査書

7  地代家賃調査書

8  専従者給与調査書

9  事業主酬調査書

10  みなし法人所得調査書

11  事業専従者控除調査書

12  給与所得調査書

13  利子所得調査書

14  未納源泉所得税調査書

一  検察事務官作成の捜査報告書

判示第一及び第二の各事実につき

一  収税官吏作成の配当所得調査書

判示第一及び第三の各事実につき

一  収税官吏作成の利子割引料調査書

判示第一の事実につき

一  押収してある昭和五五年分所得税確定申告書一袋(昭和五九年押第八六四号の1)及び同年分所得税青色申告決算書一袋(同押号の4)

判示第二及び第三の各事実につき

一  収税官吏作成の次の各調査書

1  貸倒引当金繰入額調査書

2  雑所得調査書

判示第二の事実につき

一  押収してある昭和五六年分所得税確定申告書一袋(昭和五九年押第八六四号の2)及び同年分所得税青色申告決算書一袋(同押号の5)

判示第三の事実につき

一  収税官吏作成の貸倒引当金繰戻調査書

一  押収してある昭和五七年分所得税確定申告書一袋(昭和五九年押第八六四号の3)及び同年分所得税青色申告決算書一袋(同押号の6)

一  なお、弁護人は、被告人の脱税額を争い、各年分の実質脱税額はいずれも公訴事実記載の各金額を下回るとして次のように主張する。

(一)  本件脱税の方法は従業員の給与の水増計上によるものであるが、被告人は水増した給与所得に対する源泉所得税(昭和五五年分として二一七二万七〇〇五円、同五六年分として一四三九万四八三〇円、同五七年分として一二二三万三四七六円)を所轄の相模原税務署に納付済であり、これらの納付額は源泉徴収義務者として被告人が現実に負担して自己の名義で納付しているものであるから、国の実質上の租税徴収権は右金額に見合う分だけ何ら侵害されておらず、各年度の被告人の脱税額を計算するにあたっては、これを控除すべきものである。

(二)  被告人は青色申告の承認に基づいて妻今井正子に青色事業専従者給与を支払っていたが、それに対する源泉徴収義務者として、昭和五五年分として二二二万五三〇〇円、同五六年分として六三七万七〇〇〇円、同五七年分として六三九万円を源泉徴収し、自己の負担で所轄税務署に納付していた。しかるに被告人は本件脱税事件の結果青色申告の承認を取り消され、その結果、妻今井正子に支払っていた青色事業専従者給与の支払は経費として認められないこととなったが、被告人が徴収義務者として負担し納付した右源泉所得税額は、各年度の被告人の脱税額から、これを控除すべきである。

(三)  公訴事実記載の各年の実際の総所得金額中昭和五五年分の藤沢医師のパイプカット手術に対する患者の謝礼五万円及び被告人の妻名義の東京相互銀行八王子支店における定期積金に係る給付補填備金等の受取金額とされている同五六年分の六六五五円(受取利息の一部)、同六七年分の二七万二三〇九円(雑収入)については被告人は何ら関与しておらず脱税の故意がない。

そこで、弁護人の主張につき以下判断する。

二  (一)の主張について

源泉徴収の対象となるべき所得の支払いがなされるときは、支払者(源泉徴収義務者)は、法令の定めるところに従って所得税を徴収して国に納付する義務を負うが、所得税の源泉徴収の制度は所得の支払を受ける本来の納税義務者から能率的かつ確実に租税を徴収する等の目的によるものであり、源泉徴収義務者の所得税の徴収、納付義務は源泉徴収義務者本人の所得に係る納税義務とは異なるものである。本件において被告人は、脱税の方法である従業員の給与の水増計上等を隠ぺいするため水増した給与所得等に対する源泉所得税として弁護人主張(一)の金額を国に納付しているものであるが、このように被告人が源泉徴収義務者として源泉所得税を徴収、納付したとしても、被告人本人の所得に係る納税義務に何ら影響を及ぼすものではないから、これをもって被告人本人の所得に係る申告納税があったものとして脱税額から控除することはできない。

(二)の主張について

被告人は青色申告の承認に基づいて妻今井正子に青色事業専従者給与を支払い、源泉徴収義務者として弁護人主張(二)の金額を源泉徴収し国に納付していたものであるが、被告人は青色事業専従者給与の支払に基づいて源泉所得税として徴収、納付していたものであるから、青色申告の承認が取り消されたからといってこれを遡って被告人本人の所得に係る申告納税として取り扱い右金額を脱税額から控除することはできない。

(三)の主張について

被告人の当公判廷における供述、被告人及び内田鐵郎の検察官に対する各供述調書等によれば、被告人はその経営する診療所のために資金を蓄積する目的で脱税を企図し、主として人件費の架空・水増計上や業務外の支出を経費とするなどの方法で所得の一部をいわゆる裏金にして秘匿することが、具体的にどのような方法で所得の除外を行うか等その実行の細部については診療所の経理担当者である内田及び診療所の税務関係の仕事を依頼していた加藤正に任せた上、右の方法により捻出した裏金の保管及び運用についても内田、加藤及び今井正子に任せていたものと認められるのであり、したがって、右内田らが被告人の事業上の収入のうちの一部を除外して裏金に回したり、裏金を定期預金等として運用したことを被告人において具体的に知らなかったとしても、それが被告人のあらかじめ指示ないし許容した範囲にある限り、被告人の脱税の故意に欠けるところはないというべきである。そして、所論の藤沢医師の手術に対する謝礼五万円については、内田の前記検察官に対する供述調書によっても被告人の事業収入を構成することは明らかであるところ、内田はこの金員は性質上公表収入とするに適さないとの判断から裏金に回すことにしたというのであって、右の措置は被告人のあらかじめ許容した範囲内のものであり、また所論の定期積金に係る給付補填備金等についても、これらが被告人の事前に許容した所得の運用から生じたものであることは関係証拠上明らかであり、右のいずれについても被告人に脱税の故意がなかったとすることはできない。

よって所論はいずれも理由がない。

(法令の適用)

一  罰条

判示第一の所為につき、行為時において昭和五六年法律第五四号による改正前の所得税法二三八条一、二項、裁判時において右改正後の所得税法二三八条一、二項(刑法六条、一〇条により軽い行為時法の刑による)

判示第二及び第三の各所為につき、右改正後の所得税法二三八条一、二項

二  刑種の選択

いずれも懲役刑及び罰金刑の併料

三  併合罪の処理

刑法四五条前段、懲役刑につき同法四七条本文、一〇条(刑期及び犯情の重い判示第二の罪の刑に加重)、罰金刑につき同法四八条二項

四  労役場の留置

刑法一八条

五  刑の執行猶予

刑法二五条一項

(量刑の事情)

被告人は、昭和四六年三月東京慈恵会医科大学を卒業し、同年五月医師国家試験に合格した後、同大学附属病院、千葉県鴨川市所在の亀田総合病院等の勤務を経て同五四年神奈川県相模原市橋本一九三七番地の六において「慈慶クリニック」の名称で診療所を開設して医業を営んでいるものであるが、同診療所は工業団地に近接し、救急及び労災の指定病院として開業当初から盛況であったとはいえ、住宅地にあるいわゆるホームドクター的な診療所とは異なり、必ずしも経営基盤が安定しているとはいえないことや、診療ミスなどの突発的な医療事故が発生した場合に備えるため等の理由から資金を貯えておきたいと考え、同五五年四、五月頃診療所の経理担当である内田鐵郎及び診療所の税務関係の仕事を依頼していた法律会計事務所の事務員加藤正と相談の上、同診療所に勤務していた被告人と親族関係にある者らの給与を水増計上したり未払の架空給与を計上するなどの方法により所得を秘匿し、過少申告を行なうことで同五五年から同五七年の三年間の所得に関し約一億五〇〇〇万円の所得税をほ脱し、借入金の返済に充当する等していたものである。そのほ脱額は高額であり、ほ脱率も同五五年について八三・七四パーセント、同五六年、同五七年については源泉徴収された税額との関係でそれぞれ二二五万二七六九円及び五四六万五二三三円の還付を受けて各一〇〇パーセントと高率である上、動機においても特段斟酌すべきものは認められない。しかも、起訴には至っていないとはいえ、診療所の給食業務、診療報酬請求事務等を行なう会社として被告人が設立し、被告人の妻を代表取締役とした有限会社アトランテックについても人件費の水増計上が行なわれていたことをも考えると被告人の納税についての対応には強く非難されるべきものがあると言わざるを得ず、以上の諸点において被告人の刑事責任は重いと言うべきである。しかし、本件ほ脱の態様は被告人と親族関係にある四名の従業員の給与の水増計上にほぼ限られており、水増等の給与につき源泉所得税として納付された金額も合計約四八三五万円(看護婦として勤務し、青色事業専従者給与を受けていた妻今井正子の源泉所得税の分をも合計すると約六三三四万円)に及んでおり、本件脱税に伴なう実質的な租税徴収権の侵害の結果につき考慮すべき点があること、被告人は本件が発覚してからは捜査、公判を通じて事実を認め、起訴された三年分につき修正申告をした上所得税本税、都市民税、事業税をすべて納付し、重加算税、延滞税、過少申告加算税についても分割納付の計画に従い一部を納付するなど反省していると認められること、また被告人には前科前歴もなく、医師として社会に貢献していること等斟酌すべき事情も存するので、これらを総合勘案し、主文のとおり量刑する。(求刑懲役一年六月及び罰金四〇〇〇万円)

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 小泉祐康 裁判官 田尾健二郎 裁判官 石山容示)

別紙(一)

修正損益計算書

今井健

自 昭和55年1月1日

至 昭和55年12月31日

<省略>

別紙(二)

修正損益計算書

今井健

自 昭和56年1月1日

至 昭和56年12月31日

<省略>

別紙(三)

修正損益計算書

今井健

自 昭和57年1月1日

至 昭和57年12月31日

<省略>

別紙(四)

税額計算書

55年分

<省略>

税額計算書

56年分

<省略>

税額計算書

57年分

<省略>

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